「スカー……」
後ろからひどく遠慮がちな声がした。俺は一瞬迷ってから振り返った。
うなだれたムファサが立っていた。ムファサに会うのはあの日から初めてだったけれど、そんな兄を見るのは生まれて初めてだということ以外何も感じないのが不思議だった。
あれから何日経ったのかははっきりとは分からなかったけれど、俺は歩くくらいなら元通りにできる程度には回復していた。
ムファサはうなだれていた顔を上げると、真っ直ぐ俺を見た。どんなときでも彼はそうだったと思いながら、俺は黙ったままその顔を見返した。
俺の顔の傷痕が目に入ったのだろう。額から頬にかけて、ちょうど左目の上を横切るようにくっきりした傷痕が残っている。一瞬だけ辛そうに目を反らしながらも、兄は口を開く。
「あの……、ごめん。俺が悪かったって、それが言いたくて……」
「……」
「ごめんな、これまで会いに来なくて。その…どうしたらいいのか判らなくて」
彼は必死で言葉を選びながら続けた。
「こんなことになったの俺のせいだ。なのに、その…」
「……殺しに来たんじゃないの？」
「……！」
兄は息を呑んだ。
……何を驚くことがあるのだろう。当然のことなのに……
（本当にお前はそう思っているのか？）
ずきん。
体の奥にうずきが広がる。目の前が暗くなるほどに激しく。それでも俺は冷静なまま言った。
「違うの？ そうなんでしょう？」
「…違う。そう言われたけど……できないんだ」
「できない？」
ずきん、ずきん、ずきん……
「ずっと考えてた。お前を殺せって言われて……でも、俺はいやだ」
「でも、そうするしかないよ。大地の掟だもの。……禍の元って、言われてるのに…」
（何を言っている？）
「掟でも何でも…俺はできない。だから、お前は俺が守る」
「守る……」
目眩がする。体の奥に広がった闇が俺を呑み尽くす。
「どんな禍よりも、お前が死ぬ方がいやだ。だから」
「大地の掟は何者にも破れない。…そうでしょう？ たとえ王であっても……」
ずきんずきんずきんずきん………
（ころさなければこのこはわざわいのもと）
分かっているはずなのに……
「変えてやる。俺が変える……俺は王になるんだ。何が何でも、お前は守るから…」
「……それはどうも……有り難き幸せにございます」
口が勝手に動く。
「……え？」
ムファサは何を言われたのか分からなかったように聞き返した。
分からないのだろう、彼には。おそらくは永遠に。
「……兄上。ご無事で何よりでした」
ムファサの表情が凍りつくのを、俺は静かに見つめていた。
そうして気付いた。
兄の顔を正面から真っ直ぐ見たのはそれが初めてだということに。
手に取るように判る。何と言えば彼がどれくらい傷つくか。
違う、ずっと前から判っていたのだ。知らないと思っていただけだ。気付いてしまえば……それで終わりだ。
いつの間にか、うずきは嘘のように消えていた。
「感謝致します。……ずっと分からなかった答えが見付かりました」
「……スカー？ 何を…」
「………」
もう何も言うことはない。
そう思って俺は彼に背を向けた。
……もしかしたら、そんな傷ついた顔をする彼を見たくなかったのかもしれない。自分で傷つけておいて矛盾した感情だとは思うが、今思えばそんな気もする。
兄は呼び止めることもできずに立ちつくしていたようだった。その気配を背中で感じながら俺はその場を立ち去った。
何故そんなことを言ったのかは今でも分からない。でも、後悔もしなかった。
口が勝手に動いて言ったこと……つまりは、俺が心の中で思っていながら気付いていなかったことが表に出て来たということなのだろう。
分かってしまえばそれはとても簡単なことだったのだから。
「スカー、どこへ行く？」
「ラフィキ……」
頭上の樹の枝からヒヒが飛び降りてきた。
いつ見ても彼女のことは分からない。プライドランドの長老といわれ、治療師でも呪術師でもある。王国一の年寄りの筈なのに、不思議なほど年齢が分からない。その声は若いようにも年老いているようにも聞こえる。その目を見ていると、全てを見透かされそうになる。
でも、そのときの俺は少しもそれを恐いとは思わなかった。何を知られようと平気だった。
俺は死んでいるはずなのだ。
「…別に、どこへも。ここを離れることはできないし」
「何の用かは、分かっているだろうな？」
「分かってるよ。でも、どうする気？」
「……お前は死ぬはずだった」
「そうだったね。…殺しに来たの？ 別に良いよ、お前にできればだけど」
「お前が生きていることは王国に禍を招きかねない。それも分かっているのか？」
「うん。分かってたんだけどね……」
「何？」
「……ムファサが、死ぬなと言ったんだ。死ねなくなっちゃった……どうしようか？」
「……お前は生きられるのか？」
「分からないよ、そんなこと。…でも、闘えなくても勝つことはできるんだよ。そのための方法なら分かる。…試してみる？」
「いや……」
ラフィキは不思議なほど澄んだ目で俺を見ると、ゆっくりと溜息をついて、それから空を見上げた。つられて俺も空を見上げる。
空は相変わらず綺麗に澄んでいたけれど、あの日見た空の美しさにはほど遠かった。
……あの美しさは、死を目の前にしていたから見えたものなのだろうか。死ぬ直前なら、またあの美しい色が見られるのだろうか。
いつか、本当に死ぬときになら……
「お前は……、ライオンに生まれなければ良かったのかもしれぬな」
不意にラフィキが言った。
「え……？」
「強さを至上の価値とする王の一族になど生まれなければ…お前のまことの力はここでは活かせぬ」
「……」
「お前は賢い。ムファサよりも、歴代の王達の誰よりも……だが、それは今のままでは……禍にしかならぬ」
ラフィキはゆっくりと首を横に振った。
俺は今生命の輪を外れて生きている。
……生まれたときからそうだったということなのか。でも…
「……別に良いんじゃないの？」
「何？」
「王国が滅ぼうがどうなろうが、生命の輪は巡り続けるよ。きっと…この世の禍なんて、結局その程度のことなんだよ」
「スカー……」
「父さんが言ってたよ。王は王国を照らす太陽なんだって。光を与え、導き、いつか沈んで新たな太陽にその地位を譲るまで輝き続けるって…」
「……その通りだ」
「でも、太陽には……ううん、太陽だから絶対に見えないものがあるよね。…父さんは知ってるのかな。ムファサは多分知らないよね…」
誰もが言った。彼こそは王だと。
誰よりも強く誇り高い、王になるために生まれてきた兄。
「ムファサは夜を知らないんだよ。太陽だから……いつか死んで星になるまで、夜を見ることができないんだよ」
彼の名は永遠に語り継がれるだろう。偉大なる王として。誰よりも輝かしい太陽として。
「だから、ムファサは絶対に僕には勝てないんだ」
「……何をするつもりだ？」
「さあ？ 別に何も考えてる訳じゃないけど。…でもラフィキ、お前には止められないよ。これはムファサが選んだことだから。…お前は全てを見ていても、何もできない。そうだよね？」
「それでも……それでも私はお前たちを見守っている」
「……そうだね」
ラフィキは黙って俺を見つめた。俺も黙ったまま彼女を見返した。彼女にできることはそれだけだ。そうと知っていれば何を畏れることがあるというのだろう。
俺は顔を背けて再び歩き出した。兄と同じで、ラフィキも呼び止めようとはしなかった。
このときからムファサと俺の間には明らかな溝ができた。俺は露骨に彼を避けるようになったし、ムファサは俺を腫れ物に触るように扱うようになった。
今にして思えば、溝はこのとき突然にできたわけではない。
溝はずっと俺達の間にあったのだ。俺はそれから目を反らし続け、兄はその存在に気付かなかった。あの出来事を直接のきっかけに、見えるようになったに過ぎない。
そして原因は、たぶん一方的に俺の方にある。俺が生まれたことがその原因なのだから。
これは……
運命なのだから。
＋＋＋＋＋＋＋
俺は象の墓場を後にして家路についた。そろそろ儀式も終わりだ。ムファサもサラビも、俺がいないことには気付いているだろう。内心はともかく、恰好だけでも俺に苦情を述べる必要がある。その前に戻っておいた方が良い。
今日家にもおらずサバンナでも見かけなかったとなると、要らぬ疑惑を招く恐れがある。……それは避けたい。今さらどういう目で見られようと気になどならないし、ムファサはそんな疑惑など思いつかないだろうが、彼以外の者の目はごまかしておく必要がある。少なくとも今のうちは。
（シンバ…）
生まれたばかりの甥…ムファサの息子。そして未来の王。
……生まれたばかりのときから一目で分かった、呆れるほどムファサによく似た子ども……
ムファサ。俺がお前に夜を見せてやる。
（本気なのか？ ……）
本気に決まっているとも。これは分かっていたことだ。あの日から……いや、俺がこの世に生まれたときから、いつかこうなることは分かっていた。今さら何を言う？
（後になって悔やんでも遅いのだぞ）
悔やむものか。日々呼吸して悔やむ者がどこにいる？ 同じことだ。俺は悔やんだりしない。
悔やむのはムファサの方だ。俺を殺さなかったことを、最後の最後に悔やめばいい。
そして知るがいい。
この世には闇があることを。
俺がどれだけお前を憎んでいるかを。
このうずきを……
胸の奥がうずく。
あの日、俺はその正体を知った。何故それまで分からなかったのか後になって自分に呆れたほど、その答は簡単だった。
これは憎しみ。そして……
（違う……）
違わない。ずっとずっと、俺はムファサを憎んでいた。それに気付いてから、俺はその日のための準備をしてきたのだ。だからもう迷わない。もう戻ることは出来ないのだから……
ずきんずきんずきんずきん……
（もう戻れない……）
（本当に？）
（こんなことは）
（嘘だ…………）
（上手く行くはずがないお前にこんなことが出来るはずが）
（お前は本当に）
（おまえはほんとうにこんなことをのぞんでいるのか？）
「黙れ！」
思いきり怒鳴って胸の奥の声を吹き消す。
いつの間にか呼吸が荒くなっていた。
（スカー！！）
悲痛な少年の声がする。聞こえるはずのない声が。
足元に幼い子どもが倒れている。左の半面を鮮血に染め、かたく両目を閉じたまま微動だにしない。
憶えているはずのない光景。見たはずのない光景。あれは俺だ。
これは……夢？
（ごめん、スカー、ごめん……）
（俺のせいだ。俺のせいなんだ）
（死なないでくれ。頼む…）
（ごめん………）
今さら迷うものか。
（ごめんね、兄さん、ごめんね……）
（これは運命なのだから）
（引き返して）
（今やめれば……）
（はじめから決まっていたことなのだから）
俺はムファサを殺せる。ムファサは俺が自分を憎んでいるということ自体が理解できないのだから。警戒すらしていない彼を陥れることなど造作もない。
一対一の闘いになれば勝ち目はない。それは分かりきっている。だが、だまし討ちなら簡単だ。それこそ赤子の手をひねるようなもの……
卑怯なことは百も承知だ。確実に勝てる方法があるのだから、それを選ぶのは当然過ぎるほど当然のことではないか。後悔などしない。あの日から俺はこのことだけを考えて生きてきたのだ。
（お前は……）
足下を走ったネズミに、思いきり前脚を叩きつける。あっけなく潰れた小動物の血を、俺は何の感慨もなく見下ろす。
（お前は狂っている）
……その通りだ。肉食獣とは言え、いや、だからこそ俺達は必要なく殺すことは決してしない。食べるためか、自分の子孫を残すため。そのどちらかのためでなければ、決して殺さない。獲物となる草食動物達も、同類も…それが掟だ。大地に生きる者達の、決して破ってはならない掟なのだ。それを無視して、殺すためだけに兄を殺そうとしている俺は、間違いなく狂っているのだろう。
だが……
（だから何だと言うのだ？）
俺はそのために生まれたのだ。兄を殺すために。ただそのためだけに。誰からも望まれずに生きる俺の、ただひとつの存在証明。
生命の輪はこの世の全てを受け入れて巡り続ける。その中には間違って生まれてくる命の一つや二つ、珍しくもないだろう。聖なる大地の中で、ひとつの命などあまりにも小さなものだ。多少の誤りなど大いなる流れの中に呑み込まれて容易に消えてしまう。俺も同じ……
（さよなら、兄さん）
（永遠に………）
ムファサに罪はない。あるとすれば、俺という影に気付かなかったことだ。そして、シンバ…彼にこそ何ひとつ罪はない。
（かわいそう……）
殺すことにはかけらの躊躇いも感じないのに、俺は心から幼い甥を憐れんでいる。不思議なものだ。
（もう戻れない）
左の目から涙が流れている。何故？ 何のために？ 憎み続けた兄のために？
（ごめんね……）
俺は空を見上げた。青い空は全てを包み込むように澄んでいる。俺の魂はあそこには行けない。この胸の奥に巣くう闇に呑み込まれてしまうから……
（永遠に……）
太陽は翳ることを知らぬかのように輝いている。おそらくは、これからもずっと……
俺はゆっくりと目を閉じ、再び歩き始めた。
＜了＞
あとがき（長文）
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