俺は生まれつき体が弱かった。おそらくは成長できないだろうと、誰かが言っていたのを憶えている。些細なことで寝込んで、何度もう駄目だと言われたことか。
だが、力に恵まれなかった代わりに、俺は知恵を身に付けた。
正面から闘うことができないなら、勝てるように工作すればいい。力がないなら他のことで補えばいい。
だから俺は努力した。相手をよく見れば何を考えているかも分かる。闘わずに勝つことだって出来る。俺にはそれが出来る。
でも……
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「なあ、そういえば今日はサバンナの方が騒がしいよな？」
「何の騒ぎなんだ？」
「どうだって良いだろ。ま、王様が死んだって騒ぎならありがたいけどよ」
「残念ながら違うな」
ハイエナたちでも気付いていたか。
無理もない。プライドランドの住人で、今プライドロックの下に集っていないのは多分俺だけだ。
「あれは祝いだよ。王様に後継ぎが生まれた、その披露目の式が行われている」
「後継ぎ？」
「未来の王様、さ。これでプライドランドは安泰ってわけだ。五体満足で健康な王位継承者が生まれたからな」
五体不満足で虚弱体質の暫定王位継承者はめでたくお払い箱というわけだ。
このままならば、だが……
「へっ……あいつに息子？」
「冗談じゃねぇぜ」
「もちろん冗談じゃあない。別に悪いことでもないと思うがな」
「なんだって？」
「悪いことじゃないだろう、いくらライオンでも子どもだぞ。……まだ牙も爪もない」
「………」
ハイエナたちは一瞬黙り込み、それからゆっくりと顔を見合わせた。
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「ほら、ここからだと遠くまで見えるぞ。プライドロックの上程じゃないけど」
「うん……」
遠くまで見えると言っても、見えるものは荒涼とした岩場ばかりだ。ましてそこには象の骨が散在し、空にはハゲタカが舞っている……。
見ていて楽しい光景とは思えなかったけれど、ムファサは初めて見る光景を素直に楽しんでいるようだった。
だから気付かなかったのだ。
後ろで、がさりという音がした。そのときまで、そちらが風下であることさえも俺達は気付いていなかった。
「おい、見ろよ。こんなところに仔猫が二匹も迷い込んでるぜ」
「……！」
気が付いたとき、俺達は４頭のハイエナに囲まれていた。
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「そりゃあ……どういう意味だ？」
おそるおそる、一匹が代表して問いかけてくる。
「意味？ 意味など無いさ。そのまま、言葉通りだ……違うか？ 俺はいくらライオンでもまだ子どもだと言っただけだ」
「おい、スカー……本気で言ってんのかよ」
「本気も冗談もないだろう。これは単なる事実以外の何ものでもない…」
「ライオンの子どもを……」
「だから。俺はどうしろとも言っていないだろう？」
「なんで……そんなことを言う？」
「……言っただろう、俺は変わり者なのさ。何ならはぐれ者と言い換えても良いし、もっと言うなら嫌われ者だ。ついでにもうひとつ言うなら、…ムファサには恨みがある」
ずきん…
「ムファサ？」
「王様の名前だよ、お前達が散々恨んでいる……。どうだ？ お前達がいくら馬鹿で臆病でも、できることは分かるだろう？」
ハイエナたちは、似合わぬ思案顔で再び顔を見合わせた。
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「こりゃまた珍しいお客さんだねぇ。なかなかのご馳走じゃないか」
「ああ、あっちのやせっぽちはともかく、こっちのは食べでがありそうだぜ」
骨の小山を囲む形で４頭はじりじりと迫ってくる。
「スカー、逃げろ」
「無理……囲まれてる」
「くそ…こんな奴らに……！」
「こんな？ へえ、どんな奴らだって言うんだい、坊や？」
「低能で下品で卑劣な奴らだよ。そうさ、ハイエナなんかに負けるもんか。俺はライオンの王になるんだ」
「へぇ……未来の王様だってよ」
「可哀想にねぇ。もう未来なんて無くなるってのに」
「何だと？！」
「兄さん、やめてよ。ここはハイエナたちの縄張りなんだから、そんなこと言ったら……」
「へぇえ？ 小さい方は分かってるじゃねぇか。覚悟はできてるってわけだな？」
「そっちの可愛い坊やは弟かい？ 喜びな、兄弟一緒ならあの世でも寂しくないだろうぜ」
「ふざけるな。そんなこと、あるもんか！」
「あるんだよ、残念だったな！」
「……！」
飛び上がったハイエナが襲いかかってくる。ムファサは正面から来たハイエナの喉元に向かってとっさに爪をふるった。
血が飛び散る。傷ついたハイエナが倒れる。喉元の傷は深いようだった。
所詮は子どもと甘く見ていたであろう相手に反撃されて、ハイエナたちは一瞬ひるんだようだった。始めはなぶるつもりだったのだろうが、本気で攻撃してこようという様子がうかがえた。
「やりやがったな、小僧……」
「殺してやる」
「やれるもんならやってみろよ。ハイエナごときにライオンが殺せるもんならな！」
ムファサは傲然と言い放った。低く唸ってみせる。ハイエナたちがさらにひるむのが分かる。
今の内に逃げなければ、奴らの仲間が集まってくる前に…そう思いながらも俺は動けなかった。
「兄さん…」
「スカー、動くなよ。俺はあんな奴らになんか負けない」
位置的に高いところに立っている分、こちらの方が有利は有利だ。だが、何といってもここはハイエナたちの縄張りだ。下手に戦うより、できるだけ早く離れるべきなのだ。
まして、兄ひとりならともかく俺がいる。
「おまえは俺が守る」
無理だ、そんなこと……
「死ね、小僧！！」
躍り上がったハイエナが兄の顔を狙って牙をむいた。ムファサは素早く身を沈めると同時にそいつの胸元を思いきり引っ掻く。
次の瞬間、俺は気付いた。もしかしたら気付かなければ良かったのかもしれないこと。姿勢を低くして視界が狭まっている兄の横から、もう一頭のハイエナが襲いかかってきていることに。
（危ない…！）
それから何が起こったのか、俺ははっきりとは憶えていない。あるのは断片的な記憶だけだ。
左半面を焼くような熱さ、一瞬体が浮き上がる感覚、背中から地面に叩きつけられる衝撃、そして……ああ死ぬんだと思った。それがあまりにも当然のことのように思えて、ひどく冷静だったのを憶えている。
最後に見たものは、地上のささやかな争いなどまるで気にかけぬかのような、美しく澄んだサファイア色の空だった。
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「敵の敵は味方というだろう。お前たちには難しいかもしれないが……」
俺は黙り込んだハイエナたちをゆっくりと見回した。
どれもこれもろくに頭蓋骨の中身の入っていそうにない顔ばかり…だが、構わない。頭の使える者はひとりいれば十分なのだ。
奴らは俺の言うとおりに動けばいい。余計なことをする頭は必要ない。
馬鹿で単純、大いに結構だ。
「俺はムファサに恨みがある。お前たちと同じ」
（恨み……本当に？）
「ライオン達はお前たちを軽蔑している。侮っているのさ。まさかそんな相手にしてやられるとは思わないだろうな」
侮られているのは俺も同じこと。何もできないと思われているからこそ、俺はここにいられるのだ。
ずきん、ずきん、ずきん…………
これは復讐……
（復讐？ 何の？）
あいつが選んだことだ。そう、いつかこうなることは始めから分かっていたはず。こうなるしかないのだから。
分かっていたはず………
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（お前が無事で良かった。……だが、分かっているだろうな？）
（俺のせいだ……）
（その通り。お前のせいだ）
誰かの声が聞こえる。耳元で話しているようにも、どこか遠いところからのようにも思える。
（俺が悪いんだ。なのに）
あれからどれくらい経っていたのかは分からない。どうやってハイエナたちから逃れてプライドランドに戻ったのかも分からない。
確かなのは俺達は死なずに戻れたということ、ただし俺の傷はずいぶん深かったらしいこと。
（なのに……）
戻ってきた俺たちの周りでどんな騒ぎが起きたのかも俺は知らない。憶えているのは、高熱と痛みで朦朧としながら聞いたその会話だけだ。
……もしかしたら、夢だったのかもしれない。
（お前の愚かさのために弟は傷ついた）
（あいつは……どうなるんだ？）
（……顔の傷は目には至っていない。とっさに目を閉じたのだろうな。痕は残るだろうが視力は無事だろう。だが……）
（だが？）
（背骨が傷ついている。おそらく障害が残る）
（そんな…）
（歩くことはできても前のように走れはしなくなるだろう。飛んだり跳ねたりもできなくなる）
（何とか……ならないのか？ ラフィキ、お前なら）
（運命を変えることは誰にもできぬ。……私にも、お前にも）
（………）
（……ムファサ。スカーを殺せ）
（な……！）
（スカーを殺せ）
（いやだ！ どうして、そんな）
（スカーはもう自分の力では生きられぬ。生きる力を持たぬ者は死ぬしかない。それが大地の掟）
（いやだ。あいつが怪我をしたのは俺のせいなのに、どうして殺さなきゃならない）
（そうするしかないのだ。このままでは禍の元になる）
（禍なんて……そんなこと、分かるもんか）
（………分かるのだ。哀れではあろうが、己の感傷で大地の掟を破ることは許されぬ。…いずれお前にも分かる）
（分かるもんか。絶対にいやだ）
（これはお前がしなければならぬことだ）
（できない！）
（ムファサ。お前は自分の罪を償わねばならぬ）
（だったら俺を殺せ。スカーは死なせない）
（……お前を殺すことはできない。お前は未来の王となる身だ）
（スカーは違うから良いって言うのか？！ そんなこと、関係ない！）
（たとえ王であっても、大地の法を破ることはできぬ）
（関係ない。そんな掟なんか知るもんか！）
（……お前のしようとしていることは生命の輪を乱すことだ。いずれ禍がその身に降りかかることとなろう。いや…お前ひとりではなく、王国そのものに…お前は王となるのだから）
（いやだ……できない）
（いずれ……必ず…）
俺はその会話を夢うつつに聞いていた。熱のせいかひどく現実感がなく、俺は奇妙なほど冷静だった。死にかけることならそれまでにもよくあったことだったからかもしれない。
王子とは言え第二子、しかも虚弱な子ども。兄には遠く及ばない。……自分が周囲からどう思われているかくらいその頃から知っていた。
（次の王様は本当にご立派な方らしいね。めでたいことだ）
（だけど……そうなったら）
（あの子はどうなるんだろうね）
（兄上の方はしっかりした方らしいけど、弟の方は……）
（同じ兄弟でも違うものだ）
（本当に、少しでも兄さんに似ていれば）
（あの子は一体何なのかしら）
（判らない。あの子が何を考えているのか）
（おまえは）
ラフィキの言っていることは正しい。
大地の掟…それは何者であろうと決して犯すことのできないこの世界の法則だ。自らの力で生きることができない者は死ぬ。死ななければならない。そんな者を生かしておくことは害にしかならないからだ。
（お前は本当に私の子どもなの？）
ライオンはこのサバンナの王と呼ばれる。だが、死ねばその体は土に帰って草となる。そうして草食動物たちがその草を食べる。
だから死は終わりではない。大地に生きとし生きる者は、全て大いなる輪の中につながっている。
生きられないはずなのに生きている者は、その輪を外れていることになる。
大地に逆らって生きてゆけるはずがないのに。
（いやだ……）
運命は誰にも変えられない。いずれ近いうちにこうなるはずだったのだから。これこそが生命の輪のさだめ。
……ならば逆らうことは無意味だ。受け入れるしかない。
（死にたくない）
これが運命なら……
（死にたくない……！）
＜つづく＞
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