星夜
１．それが夢だと気付いたのは、しばらく経ってからのことだった。そうと気付いてからもとても信じられなかったほど、それはリアルな夢だった。
周囲は暗闇だ。すぐに、今が夜なのだと気付く。足下の草の感触、頬を撫でる夜風の冷たさ、かすかな虫の声、そして頭上に降るような星空・・・・とても夢だとは思えない鮮やかな感覚。
（ああ、夢だこれ・・・・）
なのにそうはっきりと自覚していることの方が、かえって不思議だった。
「ねえ、どこへ行くの？」
不意に後ろから声がした。驚くと同時に少しも驚いていない『自分』を感じる。（え・・・？）
「どこにってわけじゃないけどさ。星が綺麗だから」
そう、何も驚くことはない。これは弟の声だ。（・・・弟？ 僕は、弟なんて・・・・）
「星？」
「そうだよ。綺麗だろ？ 降って来るみたいだ」
頭上を見上げる。夜空を埋め尽くさんばかりの星々が、恐ろしいほど美しかった。
見守るうちに、星がひとつ流れた。
「・・・・そうだね」
隣で空を見上げる弟の声に、そちらを振り返る。星明かりに照らされて、その顔が闇の中に浮かぶ。
（・・・・・・？！）
夜目にも明らかな深い緑色の瞳。見間違えようもない、世にも珍しい・・・・忌まわしいその色。知る限り、こんな色の瞳の持ち主はひとりしかいない。
「スカー・・・？！」
「え？」
相手はあっさりと応えた。振り向いた幼い顔には、自分の知っているあの面影は見えなかった。
「何？ 兄さん、どうかしたの？」
（兄さん？！ じゃあ、僕は今・・・）
「あのさ、父さんから聞いたか？ あの話」
狼狽しながらも口から出たのは、全く考えてもいなかった言葉だった。
「あの話って？」
「あの星から、過去の王達が俺達を見守っている・・・っていう話」
「ああ。聞いたけど・・・・」
「だからさ、ゆっくり星を見てみたかったんだ。綺麗なだけじゃないんだって思ったから」
弟は・・・スカーは、わずかに首を傾げて言った。
「ムファサ・・・、信じてるの？ その話・・・・」
その言葉はひどく意外だった。自分自身にとっても、夢の中にいる「自分」にとっても。
「お前、信じてないのか？」
「だって・・・・」
緑の瞳が空を見上げる。星明かりを映したその色は、何故かとても綺麗に見えた。まるで、美しい翠の石のように。
「星はただの星じゃない。空の上で光ってるだけでしょう？ 何もできないし、何もしてくれないんだよ。見守ってるって言っても、それじゃ無意味だよ。信じてどうなるの？」（随分可愛げのないこと言うなって、思ったんだよな・・・・）
夢の中の「自分」は、そう思っていた。おとなしい弟がそんな突き放したような物言いをするのがひどく意外だった。あの信じられないほど美しい星空を見て、冷ややかなままでいられるなんて・・・と。
父は気付かなかったのだろうか。弟の宝石のような瞳の奥に潜んでいたものに。
「・・・あ」
星が流れた。虚しい一瞬の光のはずなのに、その軌跡の輝きは目の奥に焼き付いた。
「シンバ、何ぼーっとしとんねん？」
星空を見上げながら思い出していたら、横からそんな声をかけられた。
「え・・・・ああ。ちょっと、考えごとをしてたから」
「考えごとぉ？！ な、なんかあったんか？」
「ひょっとして、熱でもありはるんや・・・」
「・・・何だよ、その思いっきり意外そうな言い方。しかもなんで心配するんだよ」
「いや、めっちゃお前らしないやん」
「どういう意味だよ？！」
「そのまんまの意味に決まっとるやろ。何真面目な顔しとんねん」
「失礼だなぁ・・・」
「何が失礼やねん。ほんまのことやんか」
「・・・ティモン・・・・僕のことどういう目で見てるんだ？」
「間違っとらんやろ、ワシ結構目ええんやで」
「・・・・」
言い返せなかった。
「・・・なぁ、それで何考えてはったん？ 教えてぇな」
プンバァのおっとりした声が、険しくなりかけた空気を和らげる。
「ちょっと、変な夢を見てさ・・・・」
「夢？」
「うん。あの星が何かって話をしてて・・・」
「何や、それ。前に教えたったやろ、あれは蛍」
「そうじゃなくて」
かぶりを振ってから、もう一度空に目をやる。
夢の中と同じ、降るような星々をを見つめると、あの時のやりとりがいやと言うほどはっきりと思い出せた。まるで自分自身の身に本当にあったことのように。
あれは、ムファサの記憶なのだろうか。
「叔父さんは、どうして父さんを殺したんだろう」
「はぁ？ 何やそれ。叔父さんてあのスカーやろ？ 今さら何ゆうてんねん」
「うん。そうなんだけど、でも・・・」
「でも、なんやの？」
「僕はやっぱり、兄さんには勝てないんだね・・・」
「はあ？」
「・・・・そう、スカーが・・・叔父さんが言った気がした。最期の時に」
「何やそれ。訳わからんで」
「何かと聞き違えたのか、本当に気のせいかもしれないけど、確かにそう聞いたと思うんだ」
「聞き違えの方に賭けるで。虫５匹」
「ほな、わたしは幻聴に５匹」
「・・・・賭けにするなよ」
文句を言いながらも、自分の悩みを笑い飛ばしてくれるふたりの言葉は嬉しかった。
笑っても、逃げるわけにはいかないと分かってはいるけれど。２．
「ずっと、優しい叔父さんだと思ってた。僕は結構、好きだったんだけどな・・・」
幼い頃の想い出は、真実を知った後でも変わりはしない。あれ程に憎まれていたなんて、思いもしなかった。全てが嘘だったなどと、最期の時まで、できれば信じたくなかった。それでも悟らざるを得なかった。
暗い狂気を秘めたあの瞳を見てしまったから。
「そんなん当たり前やん。殺したろ思てる相手に、分からすような態度わざわざとるかいな」
「そう、そうなんだろうけど・・・・」
「いつかかち割ったる思いながらその頭なでれる奴かて、世の中にはおんねんで。その程度のこともわからんから、いつまでたってもぼんやっちゅうねん」
「何だよそれ・・・・」
「ほんまのとこ知りたいんやったら本人に聞くしかないやろ。ま、聞いて分かるとは思えんけどなぁ」
「そやろねぇ・・・」
「どうして」
「そないなこと、自分でもわからんもんやで。それこそ賭けてもええわ」
「ひとのこと好きとか嫌いとか、どっちか片っぽに決められるとは限らへんでぇ。好きやけど嫌いやとか、嫌いやけど好きやとか、いくらでもあることやからねぇ」
「そんな・・・・ものなのかな」
「せや。世の中ちゅうもんはそうそう単純なもんやあらへん」
「そう・・・か・・・」
彼はもう一度空を仰いだ。夢の中の空と寸分違わぬ降るような星空。
（あの星から、過去の偉大な王達が我々を見守っている・・・・・）
父の声が心に響く。忘れてはならない教え。それを・・・・
（星はただの星じゃない）
父はこの話を自分の父親から聞いたと言っていた。おそらく叔父も同じだろう。
・・・・父があれほど誇らしげに話してくれたことを、夢の中の叔父は冷笑してみせた。幼い愛らしい声で、あどけない口調で、ぞっとするほど冷ややかに言い放った。空で光っているだけの星に何が出来るのかと。見守っているだけの過去の王など無意味だと。
それを思うと、今さらながらに背筋に冷水を浴びせられたような気分だった。いやが上にもあの瞳を思い出す。底の見えない深いふかい闇のような暗い色。憎しみと哀しみに眩んで、もはや何も映していないようなあの瞳。
あんなに綺麗な緑色なのに。
どうして、あんなにかなしい色になってしまったんだろう。
星が流れる。命のように。「俺はどうすればいい？ どうすれば良いんだ、スカー・・・・」
「兄さんは悪くないよ」
「え？」
「誰にも、もうどうすることもできないんだから、兄さんは悪くないよ。僕はもう・・・・」
僕はもう何も望んではいないから。
（僕には兄さんしかいなかったのに）
だから、諦めるしかないんだよ。
（おねがいだからおいていかないで・・・）「何も望んでないっていうのは・・・どんな気持ちだと思う？」
「・・・・あのなぁ、お前一体、さっきから何が言いたいんや？ 訳わからんで」
「叔父さんは、どんな気持ちだったのかなって思ったんだよ・・・何を望んであんなことをしたのかって」
「はぁ・・・・」
「どう考えても分からないんだ。・・・・見た目だけなら分かるよ、自分が王になりたかったから・・・でも、それなら、本当にそれだけなら僕も殺されたはずなんだよ」
「はぁん？」
「あの時・・・・父さんが死んだとき、僕は何も知らなかった。その気になれば簡単に殺せたはずなんだ。僕は全く疑っていなかったし、逆らえる力もなかった。それなのに、叔父さんは僕を殺さなかった」
「殺してほしかったんか？」
「！ そうじゃないけど・・・」
「ハハハ、そら冗談や。せやけど、別にそんなんおかしなことやないやろ」
「どうして？！」
「殺さんかったんは殺したなかったからやろ。それだけのこととちゃうんか？」
「殺したくなかった？！ どうして」
「なんぼでもあるこっちゃ、そんなもん。あのな、心ゆうもんはそないに簡単とちゃうで。さっきからゆうとるやろ？ 白か黒かで分けれるかいな」
「でも・・・・、叔父さんは父さんを殺したんだ。王になるために・・・それなら、僕だって・・・」
「せやからそない単純やないゆうてるやろ。王様になりたいだけやなかったんちゃうか？ 結構、欲得ずくよりも単純にそいつが嫌いやとかいうような理由のほうが思い切ったこと出来るもんやで。自分が王様になりたいだけやのうて、兄貴が嫌いやっただけとかな」
「・・・どうして？ どうして、殺したいと思えるほど憎める？ ・・・・・兄弟なのに・・・」
「関係あらへん。理由もあらへん。そういうことはな、あるもんなんや」
「そんな・・・・・」
「別に、親子や兄弟やゆうたかて絶対好きとは限らへんで。好きになるもんやと思たかて、でけへんことはあるわ。それはもうどないしようもないねん。どんだけがんばってもな、好きになれんもんはなれんねん。考えてみぃ、誰かを努力して嫌いになれるか？ でけへんやろ、おんなじこっちゃ」
「理由もなく・・・・」
「そら、ワシはふたりとも知らんさかい絶対そうやとは言いきれんけどな。そういうもんやと思うで」
「・・・・・・・せやけど」
しばらく黙っていたプンバァがふと口を開いた。
「なんぼしょうがないゆうたかて、お兄さんやとか・・・・そんな近しいひとをどうしても嫌いやとか思てしもたら、ずいぶんお辛いことやろうねぇ」
・・・・何の望みも持たないとは、それは即ち「絶望」ではないか。
＜つづく＞
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