鎮魂歌
「仕方、なかった」俺は彼女の顔を必死で見つめながらそう言った。
言った直後に思った。何てくだらない言葉だろう。何て無意味で無力な言い訳だろう。
───でも、心の中をどれだけ探しても、他に言葉は見つからなかった。
仕方なかった。俺は結局こうすることしかできなかった。
許さない。許さない。許さない。
父を惨殺されて以来、ずっとそう思っていた。あの日の夢を見るたびに誓いを新たにして、その思いのみで俺はこの仕事に就いた。日本人と戦うために。あいつらに復讐するために。それだけを考えていたはずだった。
日本人は敵だ。憎むべき敵だ。俺は奴らを絶対に許さない。絶対に。
───それなのに。
未だに分からない。何故あの男は俺を許したのだろう。
俺はあいつを殺すつもりだった。殺せるはずだった。邪魔さえ入らなければ間違いなく殺せたはずだった。
それなのに。あの男は俺を許した。自分を殺そうとした俺を許した。
何故だ？ 何故お前は俺を許した？ 中国人に対する憐れみか。日本人であることへの罪悪感か。
・・・・俺はお前たちを許さない。それなのに。
迷い続けていた。
和平は許せない。それは日本を許すということだ。日本に踏みにじられてきた同胞たちの嘆きと怒りに対する裏切りだ。そんなことは絶対に許さない。
けれど、あの男は心から平和を願っているように思えた。心から日本の非道を嘆いているように思えた。心から中国人を想っているように思えた。
・・・・そのことに愛玲との関係がどの程度影響していたのかは分からない。けれど、それは間違いなく真実だったのだろう。俺は日本と日本人を許さない。それなのに。
───九重。何故お前は日本人だった？
「愛玲・・・・」
九重の呟きがかすかに聞こえた。
「愛玲、戦争は終わらない・・・・日本は敗れるだろう・・・・」
・・・・そうだ。日本は負ける。必ず負ける。
アジアの国々を蹂躙し、行く先々で暴虐の限りを尽くしている日本軍の所行は、欧米からも冷ややかな目で見られている。
このまま勝つことなど決してあり得ない。日本は負けるのだ。───お前たちは敗れるべきなのだ。敗北と蹂躙の屈辱を味わうべきなのだ。和平など、対等の立場での和平など必要ない。
俺はどうしても日本を許せなかった。九重、お前がどんな人間であっても、俺はどうしても許せなかった。
だから、仕方なかった。
だからこれは裏切りではない。九重、愛玲、俺とお前たちは相容れないのだ。恨みたければ恨めばいい。許さなくていい。許しなどいらない。俺は謝らない。
なあ九重。忘れるな。今の中国に、日本を許せる人間など存在しない。民の疲弊を、国力の消耗を恐れて戦争の終結を望む者はいても、お前たちを許す者は存在しない。
それがお前たちのしてきたことの結果だ。忘れるな。
日本軍は戦争の継続を望んでいる。愚かではあるけれど、それは逆の意味で俺と同じだ。
・・・だから利用させてもらったよ。本当に愚かだな。奴らは自分で自分の首を絞めた。これで、日本は完全に叩き潰されずに済むかも知れない機会を失ったのだ。
日本は負ける。必ず負ける。見ていろよ───
───花蓮。俺は、お前にだけは謝るべきなのだろうか。
花蓮。俺は結局、お前を裏切った。お前まで利用して和平工作を壊したのだから。ああ、お前にだけは恨まれたくないな・・・・
花蓮。お前は、俺を許してくれるか？
ああ、音が、光が、どんどん遠ざかっていく。何も見えない。何も聞こえない。
心臓が揺れるたびに、背中に開いた穴から命が流れ出していく。
相変わらず良い腕だよ、花蓮。訓練所にいた頃から、お前は俺よりずっと何でも出来たよな・・・・
ああ、これで良いんだ。俺は死ぬ。これで良い。
そう、どうせ近いうちにこうなるはずだったんだ。俺は日本軍を利用したけれど、奴らも俺を利用するつもりだっただろう。利用し終わった道具は捨てられる。殺されるのさ。
───お前に撃たれるなら、あいつらに殺されるよりずっとずっと良い。俺は目を閉じる。ああ、これで眠れる。夢も見ずに眠れる。
今度生まれるときは───もう少し良い夢が見られたらいいな。さよなら───
※ ※ ※
「・・・・仕方、なかった」
もう何も見えてい｢ないような目をわたしに向けて、彼は小さく小さくそう呟いた。
───ねえ、それは言い訳なの？ 誰に対する？
───そうよ。ねえ、何故こんなことになってしまったの？ 誰が悪いの？ 誰を責めたらいいの？
分からない。答えなんてきっとどこにもないのね。
ねえ。この世には、どうしてこんなに答えのない疑問がたくさんあるのかしら。
日本は何故アジアを支配しようとするの？ 何故劉玄のお父様は殺されたの？ 何故わたしたちは憎み合わなければならないの？
どうして貴方たちは出逢ってしまったの？ どうして貴方達は愛し合ってしまったの？
───ボチさん。どうして貴方は日本人だったの？
ええ、ええ、そうね。仕方がなかったの。貴方にはこうするより仕方がなかったのよ。わたしはそれを知っている。だからもう責めはしない。
ねえ劉玄、わたしは知っているわ。貴方がどれだけ苦しんでい｢たか。どれだけ悩んでいたか。
だから、わたしは責めはしない。誰のことも責めはしない。恨むのも憎むのももうたくさん。
これでいい。もうどうだっていい。
わたしたちは運が悪かったの。この時代に、この国に生まれたことが不幸だったの。
そうよ。わたしたちがこの国に生まれなければ、そしてあの人があの国に生まれなければ、誰も苦しまずにわたしたちは幸せになれたのよ。
わたしたちは運が悪かったの。だから───もう哀しむことはやめましょう。
ごめんなさい。ごめんなさいね、愛玲。そして九重さん。貴方達の想いが無になったのは、わたしたちのせいね。
・・・・ねえ劉玄、でもわたしは謝るべきなのかしら？ 誰に対して？ 何を謝ればいいの？
愛玲、貴女はわたしを恨む？ あの人を愛していると泣きながら告白した貴女を、ほんの僅かでも憎まずにはいられなかったわたしたちを恨むかしら？
九重さん、貴方はわたしを恨む？ 貴方が日本人であることを、どうしても許すことが出来なかったわたしたちを恨むかしら？構わないわ。恨めばいい。それは事実だもの。あの人が日本人であることと同じように、変えることの出来ない事実だもの。
あの人がどんなにいい人でも、それをどんなによく分かっていても、あの人は日本人だった。それで十分だった。
ごめんなさい。わたしにはそうとしか言えないわ。
───でも九重さん、忘れないで。お願いだから間違えないで。
今のこの国に、日本人の男を愛する女なんてただのひとりもいやしないのよ。
愛玲が愛したのは日本人の九重秀隆なんかじゃない。あの海の向こうの遠い国で出逢った、どこの誰とも知れない優しい「ボチさん」だったのよ。
忘れないで。愛玲は日本人なんか愛さなかった。彼女は貴方を、誰でもないただの貴方を愛していたの。日本人、中国人、そんなこと何も関係なく愛したかったのよ。どうか、お願いだから忘れないで。
ああ、足音が聞こえてくる。わたしたちを捕らえようとする日本軍の人間たち。
───もういいわ。だって、これが貴方の望んだことでしょう？ねえ劉玄。
わたしだって───生きて貴方と幸せになりたかった。それでも、やっぱりこれは仕方のないことね。そうね、分かっているわ。
分かっているから、もう何も要らない。何も望まない。
わたしは目を閉じる。
わたしはもう何も見ない。何も聞かない。何も言わない。
わたしが感じるのはこの、だんだん冷たくなっていく貴方の体の重みだけ。
これでいい。これでいいの。
ねえ劉玄。
今度生まれてくるときは、誰も憎んだり恨んだりしなくていい世界に生まれましょうね。そんな世界は夢だと、貴方は言うかしら？
───それでもいいわ。夢でもいい。夢も見られないこの世界が悪いのよ。
夢でもいい───さようなら。お休みなさい。
＜了＞
貴方を愛する夢を見て、わたしは眠るから。
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