懺悔───或いは女の独白
１．
ああ神様、お許し下さいませ。わたくしは罪深い女です。
夫ある身でありながら、わたくしのこの目は他の男を追おうとするのでございます。何と恐ろしいことでございましょう。何と汚らわしいことでございましょう。決して許されぬことと分かっておりますのに、気が付けばわたくしはあの男を見つめているのでございます。
気の迷いと思うておりました。そうして自らを欺いて参りました。けれど、もう無理でございます。この心はもはや欺かれてはくれませぬ。
ああ、何と汚らわしいこの思い。けれど、もう隠すことは出来ませぬ。
わたくしは、あの男に惹かれているのでございます。
思えばあの頃、わたくしは何も知らぬ小娘でございました。二十歳にもならぬ子どもでございました。
夫となる方は三国に並びなきご立派な御方と言い聞かされ、娘心に淡い期待は抱いたものの、恋などという甘やかな想いは望むべくもなく、わたくしはこの国へ嫁いで参りました。
そこで出会った御方は、まこと聞きしにまさる素晴らしい方でございました。王に相応しい気品。溢れる威厳。輝くばかりの知性。このような方がわたくしを妻と呼んでくれるのかと思うと、それはそれは誇らしかったものでございます。このような方を夫と呼べるのかと思うと、それはそれは嬉しかったものでございます。
けれど。わたくしはそのとき、夫のそばにいたもうひとりの男に目を惹きつけられたのでございます。
何故なのでございましょう。夫と比べて、あの男が決して優れていたととも思えませぬのに。ええ、そうなのです。冷静に考えてみれば、気品も威厳も知性も夫の方がずっと優れておりますのに。
誰もが輝くばかりの笑顔で祝福する中、唯ひとり笑うことを忘れたようにわたくし達を睨み付けていたあの男。
いいえ、あの男も笑ってはおりました。けれど、顔はにこやかに笑みを浮かべながら、あの男の目は決して笑ってはいなかった。あの瞳の奥には、ひとかけらの喜びも浮かんではいなかった。あの男は唯ひとり、わたくし達を憎んでおりました。
何故なのでございましょう。何故わたくしは、あの男に惹かれたのでしょう。あのような目で見つめられて、当たり前の娘ならばただただ恐ろしく思って当然であったはずですのに。
ええ、恐ろしゅうございました。それなのに、あの目に気付いたときから、わたくしはあの男から目を離すことが出来なくなったのでございます。あれほど恐ろしかったはずですのに、わたくしは逃げ出すことが出来なくなったのでございます。
ああ、あの瞳。恐ろしい瞳。わたくしを虜にしてしまった、あの瞳・・・・
わたくしが惹かれたのはあの男の気品でも威厳でも知性でもなかった。あの男の瞳の中に見えた、暗い炎だったのでございます。
あのときの想いをどう言い表せばよろしいのでしょうか。
わたくしの体は震えておりました。頬が燃えるように熱くなり、そのまま腰から崩れ落ちてしまわなかったのが今となっては不思議なほどでございます。
誰もがそれを初めて出会う夫の前で緊張し、羞じらっているものとでも思っていたのでしょう。そう、あのときほど人の心が外からは見えぬことをありがたく思ったことはありませぬ。
それまでただの一度も味わったことのない想いでございました。誰よりも素晴らしい方と知った夫にも、感じたことのない想いでございました。
体の芯が熱くあつく燃え上がり、そのままわたくしを焼き尽くしてしまおうとするのでございます。くらくらと目が眩み、名誉も誇りも羞じらいも全て捨ててこの身を投げ出したくなるのでございます。
ええ、そう。何もかも捨てて、この狂気に身をゆだねてしまいたいのでございます。
その男が我が夫の弟であると知ったのは、出会いからしばらく経ってからでございました。そのときは彼も、ごく普通に兄の妻に対して挨拶をしただけ。わたくしも、自らの立場に相応しい挨拶を返しました。
あまりにも当たり前の光景。ああ、その裏にこれほど恐ろしい狂気が隠されていたことを、貴方様は御存知でいらっしゃいますね。何という罪深さでございましょう。わたくしは、あのときからすでに狂っておりました。
それを隠し続け、夫も自らも欺き通して、わたくしは今まで生きて参ったのでございます。
あれからもう二十年以上が過ぎました。夫は噂に違わぬ優しく気高い方でございます。わたくしと夫との間には王子も産まれ、国民の祝福を受けて健やかに育って参りました。
わたくしは、妻として夫を愛しております。母として我が子を愛しております。王妃として民を愛しております。この平穏な幸せを神に感謝いたしております。その心に嘘偽りは決してございませぬ。どうかそれだけは、信じて下さいませ。
けれど、けれどわたくしは、女としてあの男を求めているのでございます。妻でもなく母でもなく王妃でもないわたくしという女は、あの男をこそ求めているのでございます。どうしようもなく、狂おしく、求めているのでございます。
ああ、何と汚らわしい。あの男を見ようとするこの目をくりぬいてしまいたい。あの男に触れたいと望むこの手を切り落としてしまいたい。あの男のために高鳴るこの胸を押しつぶしてしまいたい。
どれほど望んだことでしょう。わたくしか、あの男か、どちらかがこの世から消えてしまうことを。さもなければ、わたくしとあの男を残して、この世界の全てが消えてしまうことを。
何度夢に見たことでしょう。あの男にさらわれて世界の果てまで逃げて行くことを。そうしてふたりで、深いふかい地獄の底へ堕ちて行くことを。
これが、恋というものなのでございますね。わたくしの生涯ただ一度の恋。祝福されてはならぬ恋。
何故なのでございましょう。何故、わたくしはこれほど罪深い想いを背負ってしまったのでございましょう。あれほど素晴らしい夫に恵まれながら、何故？
・・・・・何故なのでございますか。何故、この想いがそれほどに罪深いのでございますか。
ええ、分かっております。夫ある身で他の男を愛するは大罪。まして我が夫は比類なき方、そして相手はその弟、いくら愚かな身とは言え、よく存じておりますわ。
けれど、心を偽ることもまた、大いなる罪ではございませぬか。自らの心に従っても罪、神の掟に従っても罪、わたくしは一体、どうすればよろしいのでしょう。
ああ神様、お教え下さいませ。この愚かな女をお導き下さいませ。どうか、どうか、お願いいたします。
２．
ああ神様、お聞きくださいませ。恐れていたことが起こってしまいました。・・・・いいえ、違う、違います。恐れていたことではございませぬ。わたくしが、心密かに望んでいたことでございます。ああ、何と恐ろしいこの心。
わたくしの夫が死にました。午睡をしていて、そのまま死んでしまったのでございます。つい先程まで、あれほど元気でいたというのに。人の運命とは恐ろしいものなのでございますね。
息子は身も世もあらぬ嘆きようでございます。民も悲しみに沈んでおります。それなのに、わたくしの嘆きは彼らとは違うのでございます。
わたくしには全て分かっているのでございます。ああ、口にするのも恐ろしいこと。ええ、けれどわたくしには分かってしまったのでございます。
夫は毒蛇に咬まれて死んだのではございませぬ。みなはそう信じているけれど、わたくしは違います。夫は、わたくしの夫は、殺されたのでございます。恐ろしいこと。何と恐ろしいことでございましょう。このようなこと、口にすることは出来ませぬ。けれど、わたくしには分かってしまったのでございます。夫を殺したのが誰なのか、何のためにそのような罪を犯したのか、全て分かってしまったのでございます。
夫を殺したのはあの人。王を殺したのはあの人。誰も知らぬ、けれどわたくしだけは知っております。
自分が王位につくとあの人は申しました。そして、わたくしを妃に迎えたいと申しました。決して誉められたことではないが、国民の悲しみを慰めるためにそうしたいと・・・
ああ、わたくしには分かってしまったのでございます。そう言うあの人の瞳を見たとき、わたくしは全てを悟ったのでございます。
あの人が殺したのです。この国の王を、自らの兄を、その手で殺したのでございます。王位を奪うために。そして、わたくしを奪うために。決して口には出さぬ、けれどあの瞳は雄弁にそう語っておりました。
神様、お聞きくださいませ。わたくしは全てを存じております。けれどそれを誰にも話すつもりはございませぬ。あまりにも恐ろしいからではありませぬ。信じてもらえぬからでもございませぬ。あの人の掴んだ地位を、傷付けたくないからなのでございます。
そして、そして、嬉しくてならぬからなのでございます。
ああ、何と嬉しかったことでしょう。あの人がわたくしを求めてくれた。あの人もまた、わたくしを求めてくれていた。それを知ったとき、どれほど心が躍ったことか。どれほど身が震えたことか。
あの人は、その手で実の兄を殺してまでわたくしを求めてくれたのです。女として、これほど喜ばしいことはまたとございませぬ。・・・女とは、何と業深き生き物なのでございましょう。そして男もまた、何と罪深き生き物なのでございましょう。けれどわたくしは女でございます。そしてあの人は男でございます。王と妃でもない、夫と妻でもない、男と女でございます。この上なく罪深き、男と女なのでございます。
あの人は男として、女としてのわたくしを求めてくれた。それがわたくしには嬉しくてなりませぬ。気も狂わんばかりに、嬉しくてならぬのでございます。ええ、わたくしは女でございます。女以外にはなれぬ身でございます。
存じております。自分がどれほど罪深く汚らわしいことをしようとしているのか、わたくしはよく存じております。
けれど、わたくしはもう止められませぬ。自らの進む道の先に破滅が待ち受けているのがはっきりと見えますのに、歩みを止めることが出来ませぬ。あの人と共に、歩み続けようとしているのでございます。
息子はさぞや怒り悲しむことでしょう。あの子は父親をそれは愛しておりました。母として、よく存じております。けれどわたくしはもう止められませぬ。
ええ、わたくしは知ってしまいました。恐ろしい罪の味を知ってしまいました。呪わしい恋を知ってしまいました。自分がどのような女なのか、骨身にしみて知ってしまいました。
わたくしに差し延べられるべきは、慈悲深い貴方様の救いの御手ではなく、兄弟殺しのカインの血塗られた手なのでございます。わたくしはその手をこそ取りたいのでございます。その血を自らの手に受けて、同じ罪を分け合いたいのでございます。それこそがわたくしには相応しいのでございます。
わたくしのカイン。罪深いカイン。愛しいカイン。わたくしを共に地獄へ連れていって下さいませ。貴方の罪はわたくしの罪。貴方と同じ罪にわたくしも染まりとうございます。もはや、後悔はいたしませぬ。
ああ神様、けれど唯ひとつ心残りがあるのでございます。
わたくし達の罪を知れば、夫はさぞや苦しみましょう。さぞやわたくし達を憎むことございましょう。それはなりませぬ。あの方には罪など何ひとつございませぬのに、その憎しみによって万に一つも罪に問われることがあってはなりませぬ。それだけは、それだけはなりませぬ。
お願いでございます。どうか、あの方をお救い下さいませ。あの方を天の園へと導き、安らかに眠らせてやって下さいませ。
あの方がもしも罪を犯していたとすれば、それは全てわたくしの罪なのでございます。どうぞあの方の罪を問わないでいただきとう存じます。どうか、どうかお聞き入れ下さいませ。
これが、わたくしの最後のお願いでございます。最後の祈りでございます。お聞き届け下さるならば、もはや心残りはありませぬ。心おきなく、自らに相応しき道を歩みましょう。
別れを告げとう存じます。もはや貴方様に声をかけることはありますまい。そのような資格、わたくしは自ら捨ててしまいました。わたくしは貴方様の加護に値せぬ女でございます。どうぞお見捨て下さいませ。
３．
ああ、これが裁きなのでございますね。これが、わたくしの罪に相応しき報いなのでございますね。
全てが滅ぼうとしております。悲しみと憎しみが波のように後からあとから押し寄せ、全てを呑み込もうとしております。もはや誰にも止めることは出来ますまい。
これで、全てが終わるのです。
思えばあれから、幾人が命を落としたのでございましょうか。誰ひとり死ぬべき者はいなかったというのに。全ての始まりはわたくし達の罪なのでございます。
間違われて殺された老人。悲しみに狂って自ら死んだ娘。自らの手を血に染めた我が子。そして今また、ふたりの若者が自らの激情故に命を落とそうとしております。ああ、何という悲劇でしょう。あらゆる罪がこの身にのしかかって参ります。
ええ、そう。わたくしもまた、死ぬのです。全てはこの身の罪故に、ならば悔やむこともありますまい。こうなることは分かっておりました。いずれ来るべき時が来ただけなのでございます。
だから我が子よ、悲しまないでおくれ。おまえは若くて愚かだけれど、わたくしのそばにいるには清らかすぎたのです。おまえがどれほどに苦しんでいたか、わたくしは知っておりました。それでもわたくしは、母としておまえを慈しむよりも、女としてあの人を愛することを選んだのです。
おまえはわたくしを汚らわしいと言った。ええ、ええ、その通りです。けれど、おまえがひとつ間違っていることがある。
どれほど罪深い関係であろうと、自ら望んで愛する男に抱かれるならば、女の身体は汚れはしないのですよ。わたくしはあの人に汚されたのではありませぬ。この心は、ずっと以前から穢れていたのです。おまえには分からないのでしょうね。ええ、知らずとも良いことです。
ああ、もうすぐこの毒がわたくしの息を止める。そうして全てが終わる。やっと、罪深い悲劇の幕が降りるのですね。
愛する息子よ、もう苦しまないでおくれ。おまえの罪は全てわたくしが負いましょう。おまえが殺めた全ての命はわたくしが贖いましょう。どうか迷うことなく、天の園へ旅立ちなさい。そこで、おまえの愛した清らかな娘が、気高い若者が、誠実な老人が、そして偉大な王が、おまえを祝福してくれることでしょう。わたくしの道とおまえの道は、もう二度と交わることはないのです。
わたくしはあの人と共に地獄へ堕ちるのです。ええ、恐ろしくはありませぬ。わたくしは天国には相応しくない女です。永劫の地獄こそが相応しい女なのです。
今思えば、あの娘は決して狂ってなどいなかった。狂っているのはこのわたくし。地獄へ堕ちることを喜ぶなど、狂気以外の何ものでもありますまい。これこそが、恋という名の狂気なのです。
ええ、わたくしは今嬉しくてなりませぬ。これはわたくしが望んだことなのです。これでやっと、本当にあの人とふたりきりになれる。永遠にふたりきりになれる。それこそが無上の喜びなのです。そのためならば、わたくしはもう何も恐ろしくはありませぬ。
カイン。愛しいカイン。貴方が兄殺しならば、わたくしは夫殺しで息子殺し。罪深き身に相応しき道を、共に進みましょう。地獄の底へ、共に参りましょう。ああ、嬉しゅうございます。貴方といつまでも共にいられるのは、このわたくし唯ひとり。嬉しゅうございます。嬉しゅうございます。
カイン。愛するカイン。罪深いカイン。わたくしのカイン。もう決して放しはいたしませぬ。誰よりも愛しい貴方を、神になど渡してなるものですか。いつまでもいつまでも、わたくし達は共に在るのですわ。
ああ、地獄へ続く道が見えますわ。
参りましょう。
＜了＞
≪あとがき≫
分かり難いかと思いますが、これは『ハムレット』ネタです。
ガートルードの独白です。
固有名詞が出てこない（「カイン」は「兄弟殺し」を意味する普通名詞だと思って下さいな）のはわざとです。第一章では「あの男」、第二章からは「あの人」になっているのもわざとです。
ちなみに、第三章で微妙に言葉遣いが違うのは、語りかける相手が違うからです。……ええ根性しとるな自分。
やたらと濃いですな…。すみません。どうもわたくし、一人称でシリアスを書くと異様に濃ゆくてキッツいものになってしまう傾向があるようです。
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